食べて、着て、ただ在る

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ちょっとした楽しみ

今日はお休みだったので、お昼はまったりと美味しいパンでも食べようかと、先日初めて訪れたパン屋さんに再び行ってみることにしました。

お店では色々な種類のパンが売っていたのですが、結局買ったのは前回と同じ、カレーパンにメキシカンドッグ、テリヤキバーガーという笑。好みのものって大体決まってるもんなんですね。

インスタ的にはここで映える写真の1枚でも載せるとこだと思うのですが、このときはブログのことなど頭になく、今回写真は撮っておらず。。。美味しそうな見た目はお伝えできませんが、リーズナブルでほんと美味しかったです。特にカレーパンがお気に入り。

最近はこれといった趣味もないので、ちょっとした「食」が楽しみのひとつかもしれません。

そんなにお金もかけられないので、たとえば持っていくお弁当の味付けに凝ってみるとか、休みの日は少し贅沢してみるとかその程度ですが。まあ、そんな小さなしあわせの積み重ねが大事なのかな、なんて思ったりもします。

稼ぎは雀の涙ですが、寝食困らない生活はできているわけで、多くを望まなければ楽しみはいくらでも見つけられるってなもんです。

いつもの公園にて

近所の公園に車を停めて、買ったパンとコーヒーを堪能。

快晴というわけではありませんでしたが、やはり開けた場所で食べるといいもんですね。ちょっとしたピクニック気分みたいな。しかしながら、公園に着いても今日は車の中から出ることはなかったのですが笑。要は目の前に見える景色が大事ってことです。

このあとは”いつもの”図書館へ行こうと思っていたのですが、なんかめんどくさくなっちゃって、このまま公園でまったりしようかなと、ちょうどkindleで買って読みかけだった本の続きを読むことに。

タイトルだけ見ると「人間は考える葦である」みたいなことを連想しそうな、以前紹介したOSHOさんの禅について書かれた本。まだ読み終わってはいませんが、印象に残るフレーズをご紹介。

ある人が 師睦州に訊ねた

私たち人間は 毎日毎日

着たり食べたりしなければなりません

如何にこれから脱却できましょうか?

睦州は応えて言った

私たちは着 食べる

睦州は言っている。自分をもちこむな、と。ただ食い、ただ歩き、ただ眠るのだ。そこから抜け出ようとしているそれは誰なのだ?そのエゴを落としてしまいなさい。それは、実在するものではない。(中略)

エゴは幻影、それはまさにマインドが生み出すものだ。(中略)

彼の答えは完全かつ完璧だ。彼はただ言う。私たちは着、食べる。そこには何の問題も見出せない。そこから出てくるべき何者もそこに見出せない。

内部には誰もいない。食べることが存在し、着ることが存在する。エゴは存在しない。

引用:OSHO「草はひとりでに生える」p.30-37

頭の中にある記憶の風景。そこにいたはずの人はもういない。思い出だけが残るのみ。

いまこの「現在」すらも、ほんとうは経験しか存在しない幻のようなもので、「わたし」というエゴもまたまぼろしということなのかもしれません。

いま抱えている様々な”問題”すらもほんとうは意味はなく、ただ”答え”だけが存在するのみ。

私たちはそれをただ”味わえばいい”だけなのかもしれませんね。

本の中でOSHOさんは、インドで生まれた禅が中国を経て日本で花開いたが、今の日本からは禅は消えている、と述べています。

あらたな風の時代を迎えて、以前花開かせた時代のように、一人ひとりが再び内的な深化へと向かう必要があるのかもしれません。